今日はちょっと仕事が長引いて、帰りの電車に乗ったのは22時を過ぎてた。
静岡のローカル線、いつもと同じ路線、同じ時間──のはずだった。
車内には数人、まばらな乗客。座席に腰を下ろして、ぼんやり窓の外を見ていた。
照明の反射で、ガラスに自分の顔が浮かんでいる。疲れてる顔。
イヤホンから流れる音楽が、なんとなく耳に馴染まなくて外した。
「……あれ?もうとっくに駅に着いてもいい頃じゃない?」
スマホの時計を見る。発車から20分は過ぎていた。
各駅停車に乗ったはずなのに、途中駅に一度も止まっていない。
おかしいな、と思って辺りを見渡す。
気がつくと、乗客の姿が消えていた。ついさっきまでいたはずの高校生も、会社員風の男性も。
静かすぎる車内。ドアの向こう、次の車両にも人影がない。
「……寝過ごしたのかな?」
そう思ってスマホの路線図を開くけど、今自分がどこにいるのかよくわからない。
GPSのピンが変な場所を指してる。位置情報がバグってる……?
窓の外、街灯がまばらに続いてる。けれど見慣れた町の景色じゃない。
建物がほとんど見えない。代わりに、低くうねる山の影みたいなものが遠くに横たわっている。
不安が胸の奥で小さくきしむ音を立てた。
それでも私は「たまたま」「そういう日もある」と自分に言い聞かせていた。
だって、こういうことってあるじゃない。
疲れてるときって、なんでもおかしく見えるし考えすぎるだけってことも。
そう、思っていた。
──そのときまでは。
やっと電車が止まった。
いつもよりずっと長い時間、何もない闇の中を走り続けたあとだった。
私は降りた。無意識だったと思う。扉が開いたとたん、誰に言われたわけでもないのに、立ち上がってホームに足をつけていた。
駅名を見上げて、思わず口に出した。
「……きさらぎ?」
ひらがなで書かれたその名前は、どこか薄っぺらで、現実の言葉じゃないみたいだった。音としては柔らかいのに、意味の輪郭が曖昧すぎて、触れた指が沈んでいくような気持ち悪さがあった。
駅は静まり返っていた。
無人駅というより、放棄された場所という方が近い。
ベンチは壊れ、時計は止まり、掲示板には何も貼られていない。照明も弱々しくて、辺りの様子はほとんど見えなかった。
振り返ると、電車はすでに動き出していた。
急に怖くなって手を伸ばしたけど、間に合うはずもなく、ただ、遠ざかっていく車体の赤いランプを見送るしかなかった。
私は、ひとりだった。
完全に、ひとりきりだった。
電波は……かろうじてあった。スマホを開き、掲示板に書き込む。何が起きているのか分からなくて、でも、誰かに見ていてほしくて。
「今、知らない駅にいます。きさらぎ駅って知ってますか?」
レスが返ってくるたびに少しだけ落ち着いた。
でも、「そんな駅は実在しない」という言葉が何度も返されて、むしろ現実が遠のいていく感じがした。
私は、どこにいるんだろう。そして……どうやって帰ればいいんだろう。
ふと、駅の端の方に目をやった。
線路が森に飲まれている。レールの続きが木々に呑まれて、どこにも繋がっていないみたいだった。
ここは、いつから存在していたんだろう。
そして──私はいつから、ここにいたんだろう?
戻れると思っていた。線路を歩いて帰れば、どこかにたどり着けるはずだと。
でも、歩いても歩いても何も変わらなかった。同じ枕木、同じ音。足音だけが乾いたリズムで続いて、それ以外の音はすっぽり抜け落ちていた。
遠くで、音がした。
ドン……ドン……
太鼓の音だった。夜の山の中に似つかわしくない、やけに湿った音。間をあけて、また鳴る。
ドン……ドン……ドン……
誰かが祭りでもしてる?
そう思ったけれど、すぐにあり得ないと気づいた。
この道には人がいない。
建物も、光もない。あるはずのない音だった。
なのに、聞こえてくる。はっきりと、私の耳を打っていた。
怖かった。
振り返ろうとした。
でも、身体が固まってしまった。
背中のあたりが冷たくなって、皮膚の内側を指でなぞられているような感触が走った。
振り向いたら、いけない気がした。
でも──声がした。
「線路を歩いたら、あかんよ」
ゆっくりと振り向いた。
そこには、片足のない老人が立っていた。
どこから現れたのか分からなかった。白い着物のようなものを着て、髪は真っ白で、その瞳には光が無かった。
足は片方しかなかった。でも、立っていた。地面の上に吸い込まれるように立っていた。
声を出そうとしたけど、息しか出なかった。
そのときスマホが震えた。でも、画面は真っ暗で通知も何も表示されない。ただ、微かに震え続けていた。
気づくと、老人の姿はもうなかった。まるで存在そのものが、そこにいたという記憶ごと消えてしまったみたいだった。
怖くて立ち尽くしていると、前方にトンネルが見えた。
「……伊佐貫」
トンネルにはそう書いてあった。
そこに入るしかないような気がした。戻るのはもう、だめだった。
トンネルを抜けたとき、私はもう泣いていた。
風景が、あきらかに変わっていた。木々が開けて、舗装された細い道が伸びていた。
誰かの声がした。
「大丈夫かい?」
男の人だった。年齢はよく分からない。若くも見えるし、ものすごく老いてるようにも見えた。
彼は私を見るなり
「危ないところだったね。よかった、間に合って」
と言った。
意味が分からなかったけど、私にはもう立っている力もなくて、その人の言葉にすがりつくように頷いた。
「すぐそこに車を停めてある。駅まで送るよ」
ありがとう、と言いながら私は彼についていった。
道のわきに古い軽自動車があった。
見たことのないナンバープレート。
けれど、それどころじゃなかった。とにかく、人と、車と、目的地がある。それだけで救われた気がした。
助手席に乗せてもらって、男がエンジンをかける。
ラジオがついて、誰かが何かを話していた。だけど、言葉が聞き取れなかった。
日本語のようで、日本語じゃない。音のようで、声じゃない。
「……駅って、どこですか?」
私は聞いた。
男は黙って、しばらく前を見つめたままだった。
やがて
「だいじょうぶ、すぐ着くよ」
とだけ答えた。
だけど、車はずっと山のほうに向かっていた。坂を登っていく。
街の灯りは見えなかった。ガードレールもなくなった。
道が細くなって、木の枝がフロントガラスを叩くようになってきた。
私はスマホを手に取ったが、まだ電波は入っていなかった。バッテリーの表示が赤く点滅していた。
男は運転しながら何かを呟いていた。
小さな声、ずっと何かを。
意味は聞き取れなかった。でも、その音がだんだん大きくなっていく気がした。
嫌な汗が背中を伝った。
ドアを開けて飛び降りようかと思ったど、車はスピードを落とさなかった。
私はスマホに指をかけて、最後の投稿を書いた。
「様子が変なので、隙を見て逃げようと思っています。先程から訳のわからない独り言を呟きはじめました。いざという時のために、一応これで最後の書き込みにします」
送信を押す。
メッセージが反映された。
そのあと、画面が暗くなった。もう、点かなかった。
窓の外は、闇と木の影しかなかった。
車はまだ、上へ、上へと登っていた。
住民の声