仕事帰り、たまたま空を見上げた。何の気なしに、ふと顔を上げただけだったけど、その日は星がよく見えた。
「星なんて、いつぶりに見ただろう」
思わず声が出た。心がすっと軽くなる気がした。
それからだった。家に帰っても、ベランダから夜空を眺めるようになったのは。
ただ空を見るだけなのに、なぜか落ち着いた。仕事の疲れやモヤモヤが、少しずつ抜けていくような気がした。
そんなある夜、向かいのマンションのベランダに気づいた。同じように、空を見上げている人がいた。
女の人だった。
最初は偶然かと思ったけれど、翌日も、その次の日も、同じように彼女はそこに立っていた。
俺と同じように、星を見るのが好きなのかもしれない。声はかけられなかったけれど、なんとなく親しみを覚えた。
顔は遠くてよく見えなかったけれど、髪が長くて、背筋を伸ばして立っている姿はどこか綺麗だった。
それからというもの、夜になるとその人を探すのが楽しみになった。「今夜も来てるかな」って、ベランダに出ては空を見上げた。
不思議だったのは、俺が星を見るときは、必ず彼女もそこにいたということ。
まるで、向こうもこちらを見ているような気がして──いつの間にか、俺は彼女に恋をしていたのかもしれない。
ある日、思い切って話しかけてみようと決めた。名前も知らない。顔もはっきりわからない。だけど、どうしても会ってみたくなった。
夜、マンションの前まで行って、部屋の番号を確認した。
恐る恐るインターホンを押す。
……反応はなかった。
思わず扉に手を伸ばすと──鍵はかかっていなかった。
勝手に開けるのは良くないとわかっていたけど、なぜかそのときの俺は、引き返せなかった。
中は真っ暗だった。
でも、月明かりだけが静かに差し込んでいて、窓の近くに、彼女が立っているのが見えた。
やっぱり、星を見ていたんだ。
そう思って、そっと声をかけようとした──その瞬間、背筋が凍った。
彼女は、立っていなかった。
首を吊った状態で、吊るされたまま窓の外を向いていた。
俺が毎晩見ていた彼女は、ただ、夜の空間のなかに静かに浮かんでいたのだ。
住民の声