湿地の朝は音が少ない。
地域探索エリア中部、“ウィスパリングフォール”の近くに広がる薬草地帯。霧が低くたなびき、足元には踏み込むたびに小さな水音が立つ。
その日、ひとりの女性が薬の原料になるキノコを採取するため森に入っていた。
このあたりは市民にも開放された比較的安全な探索ルートで、植物療法士や調剤師たちがよく訪れる場所だ。
だが、普段と違ったのはその湿気に混じる“妙な臭い”だったという。
「腐った獣のような、でも、それよりもっと粘つく匂いでした」
彼女は後にそう語っている。
その匂いに気づいたとき、すでに周囲の空気は重く、風も止まっていた。
背後で枝が折れる音。獣のそれにしては足取りが妙に人間に近い。
彼女が振り返ったとき、視界の奥にいたのは──
ニヤついた顔でこちらを見ている、小さな歪な人影だった。
それは、最初から“彼女の体”を目的にしていた。捕食でも、縄張りでもない。
ただ純粋に、歪んだ欲望に突き動かされていた。
ゴブリン──
低級魔物とされる存在。
だが、今回現れた個体はあきらかに本能の奥底にある“衝動”に支配されていた。
ジリジリと泥を踏みしめながら近づいてくる。口元には濡れた涎が垂れ、鼻はひくひくと動いていた。
衣服の隙間を狙うような目。まとわりつくような視線。
それはまるで、女であるというだけで“発情対象”として認識しているかのようだった。
「腰を揺らしていたんです。まだ何もしてないのに……」
彼女は後にそう証言している。
あの瞬間、自分が“獲物”ではなく“対象”として見られていることが、全身でわかったと。
魔物とは思えないほど生々しい仕草。足を踏み出すたびに体をくねらせ、粘つく声を漏らしながら手を伸ばしてくる。
服を掴もうとする指は異様に長く、いやらしいほど執拗だった。
あきらかに、彼女の“柔らかい場所”を狙っていた。
このゴブリンは、明確な“性の衝動”をもっていた。それも、理性を持たない獣のそれではない。
何かを学び、記憶し、模倣した者のような異様な執着。そこには“知性”の気配すらあった。
こうした“異常行動”は、未界域に接触した魔物に時折現れるとされている。
歪んだマナが感情や欲求を異常に増幅させる。その結果、相手を女として認識すれば、ただそれだけで追いかけ奪おうとする。
この日、女性市民はその“標的”となった。
そして、次の瞬間──
彼女は、生きるために動いた。
彼女は叫ばなかった。叫んでも、誰も来ないと分かっていたからだ。
代わりに、全身の力を足へと込めた。
地を蹴り、身体をひねり、反射的に──いや、本能的に放たれた。
「狙ったわけじゃなかった。ただ、蹴った」
彼女の言葉は淡々としていた。けれどその一撃は、確かに決まっていた。
ゴブリンの顔面に、靴の先が叩きつけられる。
グシャっという湿った音と、鈍い悲鳴。
顔を押し潰されるようにして倒れたゴブリンは、鼻先から黒い液体を噴き出して仰向けに転がった。
すぐには動かなかった。数秒の沈黙のあと、獣のような呻き声を漏らしながら、茂みの奥へと這うようにして逃げていった。
彼女の足は震えていた。けれど、立っていた。
服は泥と血と、どこか嫌な匂いで汚れていたが、それでも彼女は一歩も引かなかった。
「逃げたんです!あいつが」
そう語る彼女の目は、決して被害者のものではなかった。それは、確かに“勝者”の目だった。
この街には武器がない市民も多い。だが、闘志の火を絶やさない者は少なくない。
今回の事案は、これまでのゴブリンに関する公式記録と大きく食い違っている。
“野性種”“知性低級”とされる従来の分類においては、食料や領域に関する攻撃性はあっても、性的な執着行動や個体特有の“追跡・選別”は確認されていなかった。
だが、今回女性市民が遭遇した個体は、明確に女性の体を狙っていた。
対象を観察し、距離を測り、どのタイミングで襲いかかるかを判断していた。
これは単なる“本能”ではない。そこには“選択”があった。
こうした異常行動が未界域のにじみによる影響だとすれば、今後このような個体が複数出現する可能性も否定できない。
にもかかわらず、現状、地域探索エリア中部における警戒レベルは準安全──これは明らかに実態と乖離している。
薬草採取や自然観察など、市民活動の一環としてこのエリアに足を運ぶ者は多い。それゆえに、こうした脅威に対する対応の遅れは、結果的に“被害の蓄積”を招く。
今、必要なのは以下の3点だ。
- 該当地域における再分類調査
- 未界域のマナ変異に関連する魔物行動の追跡
- 市民による自衛手段の見直しと共有
恐怖に屈しろという話ではない。
だが、「油断できる場所ではない」という現実は、正しく伝えるべきだ。
専門家のあいだでは、“未界域のにじみ”がもたらす影響として、マナの腐敗や空間の歪みだけでなく、“生物の変質”が最も危険だとされている。
今回のゴブリン個体は、その“証拠”だった。
異常なまでの性的執着、ねばつく呼吸、視線の強さ。
それらは単なる野生的衝動の域を超えていた。むしろ、未界域に漂うマナの“人間的な欲望を模倣する性質”が魔物の行動に影響を与えた可能性がある。
欲望という形のない感情が、マナに触れることで形を持ち、行動に転化する。この理屈が本当ならば、未界域とは“世界の裏側”ではなく“心の裏側”に近い。
そして──もしあのゴブリンが誰かの“欲”によって引き寄せられていたのだとすれば、その“誰か”は、未界域の向こうにいたのか。それとも、この都市のどこかに潜んでいるのか。
いま、都市の境界は目に見えないほどににじみ始めている。
自然と未界、理性と欲望、市民と魔物。
その線引きが崩れてしまえば、きっと次に迫ってくるのは、もっと別のかたちをした“にじみ”だ。
住民の声