森が、呼吸をやめていた。
地域探索エリアの奥地、ディスカバリーゾーンをさらに進んだ先にある“封印の古道”。地図にもほとんど記されていない道を、私は探索ルートから外れて歩いていた。
もともとこの道は、かつて地域探索機関の黎明期に使われていた補助搬送路らしいが、今は立ち入り制限の対象エリアに近接している。にもかかわらず、簡易なゲートには封鎖の痕跡がなかった。
風も、音も、鳥の声さえもない。空気だけが重く、肌にまとわりつくようだった。
足元に広がる枯葉の層を踏むたびに、古びた魔力の痕がかすかに反応する。マナが“沈黙している”場所では、時として魔物が近づいている兆候とされる。
けれど、私は確かめずにはいられなかった。
空の色が、少しだけ深く沈んで見えた。
地表の草はしおれ、苔が剥がれ、樹木の幹には見慣れない裂け目がいくつも走っていた。生態系がゆっくりと壊れている。
それが、未界域の“にじみ”によるものだと直感でわかるようになったのは、きっと取材を重ねすぎたせいだ。
このときの私は、まだ知らなかった。
この道の先に、自分を飲み込もうと待ち構えていたものの存在を──
*
気配に気づいたのは、音じゃなかった。
背筋を撫でるような冷たい視線。
脇に伸びる獣道の陰から、それはじっとこちらを見ていた。
背丈は大人の半分ほど。だが、片手に握られた鉄片と、腰にくくりつけられた骨の装飾が“ただの野生動物”でないことを示していた。
目は鈍く光り、鼻がくんくんと空気を嗅いでいる。
間違いなかった。
ゴブリン。
それも、群れを偵察する役割を担う“先駆種”だ。
息を止める。
しかし、遅かった。
こちらの気配に気づいたそれは、鋭く叫び──すぐさま茂みの奥から別の影が動いた。
一体ではなかった。最低でも三体。
逃げ道を囲むように位置を取っていたのは、偶然ではない。彼らは知っていた。誰かが、ここへ来ることを。
私は反射的に走った。
古道を逆走する。足場は悪く、視界も効かない。振り返れば、木々の間をすり抜けて追ってくる気配。
ゴブリンは速い。しかも、驚くほど静かだ。
枝が頬をかすめ、呼吸が荒くなる。
どれだけ走ったかわからない。ただひとつ、確かに思ったことがある。
(今日は帰れないかもしれない)
足がもつれ、倒れ込んだ瞬間だった。
背後から迫っていた足音が、一斉に止まった。
理由はすぐにわかった。空気が張り詰め、マナが震えるのがわかったから。
「この先は、騎士の領分だ」
深く響く声とともに、目の前を横切る光。鋼の刃が軌道を描き、空中で火花が散った。
その瞬間、茂みから飛びかかろうとしていたゴブリンの影が、弾かれたように吹き飛ぶ。
そこにいたのは、誓騎士団。
黒と銀の重装に身を包み、鎧には“iAの紋章”が刻まれていた。その姿は威圧的でありながら、どこか祈るように静かだった。
彼らの剣は、ただ斬るためのものではなく、“誓い”によって導かれる信仰の刃。
ゴブリンたちは本能でそれを察知したのか、低く唸りながら森へと退いていった。
「市民か?……運が良かったな」
目元だけが露出された騎士の一人が、私を見下ろしていた。その目には、憐れみでも安堵でもない、ただ“確認する者”の視線があった。
彼らは私を守るためにそこにいたのではない。
それが“誓いの道”であったから、そこにいただけだ。
私は息を整えながら、森の奥を見た。
そこには、ゴブリンの爪痕と、ほんのわずかに残る“黒い痕”──未界域の瘴気にも似た、ざらついた空気が漂っていた。
*
しばらくして、現場は騎士団によって封鎖された。
私はその場で簡単な医療処置を受け、念のためのマナ安定剤を打たれたあと、森の入り口付近まで同行させられた。
何も問われなかった。記録も求められなかった。
けれど、その無言こそが、もっとも多くを物語っていた。
普通なら、非武装の市民が未界域に近いルートで魔物に遭遇したとなれば、調査報告か一時拘留が入ってもおかしくない。
なのに、誓騎士団はそれをしなかった。
──あるいは、あえてしなかったのかもしれない。
私はその夜、帰宅してから持ち物の確認をした。
録音端末は途中で停止していた。録画記録も破損している。
だが、一つだけ残っていた。
外套の裾に付着した、小さな泥の塊。その中に混じっていた、明らかに自然ではない光を持つ黒い結晶。
これが何なのか、今はまだわからない。
けれど、それが“あのゴブリンたちがただの魔物ではなかった”という証になることだけは、直感で理解していた。
彼らは偶然、そこにいたのではない。何かを“運んでいた”。何かに“導かれていた”。
それがどこから来たものなのか、どこへ向かっていたのか。
すべては、あの“沈黙した森”に置き去りにされていた。
*
翌朝、私は再びディスカバリーゾーンの境界線近くを歩いた。もちろん立入は禁止区域に近く、監視ドローンの反応もあったが、それでも確認したかった。
あの場所が、今どうなっているのか。
そこには、昨日までなかった結界杭が打ち込まれていた。簡易式の空間封印術式が施され、地面には“未界警戒域”の刻印。
つまり、騎士団は昨夜のうちにこのエリアを“未界域の影響下”と判断し、暫定的な隔離処置を取ったということだ。
未界域の“にじみ”──
それは、境界線そのものが物理的に破られたわけではない。マナの流れがごく僅かに反転し、空間の情報密度が変化することで“こちら側”の風景に“あちら側”の性質が滲み出してくる現象を指す。
この現象は、かつてアーカイブシティ南端で発生した“思念霧”の前兆にも似ていた。
だが、今回は拡散ではなく“接触”だった。
森に現れたゴブリンたちは、にじみ出た魔力に呼応したのか、あるいは何かを追ってこの境界を越えようとしていたのか。
そのどちらか、あるいは両方。
そして、彼らが手にしていた武器と装飾には、未界域の古語と同じ文字が刻まれていた。それはもはや、偶然ではなかった。
いま、境界は揺れている。それは自然の摂理によるものか、人為的な何かか──
その判断をするには、まだ材料が足りない。けれど確かなのは、“誰かがその境界に手をかけている”ということだ。
市民の声