ルミリアの朝は、いつもより少し静かだった。
高層階の喧騒を抜けて、裏通りの市場を抜けて──気づいたら、足はヴァルハ草原への道を辿ってた。
草原は、境界が曖昧な場所。
どこから始まってどこで終わるのか。建物も、門も、標識もなくて。ただ、風と匂いだけが「ここから違う」と教えてくれる。
靴の底がしっとりとした大地を踏む感触に変わる。
あの感覚──都市に染まりすぎた身体が、自然の肌ざわりを思い出す瞬間。
湿った風が、ふと頬を撫でていった。
そこに混じっていたのは、なんとも言えない匂い。土と草と、もっと奥にある……生き物のぬくもりみたいな。
(あ、ここ、誰かの暮らしがある)
そう思ったときだった。
「お姉ちゃん、こっち!」
背の低い声と同時に、指先がぐい、と引かれる。
見ると、小さな獣人の子が私の手をしっかり握っていた。
いつの間に?どこから来たの?
──そんな疑問よりも先に、その手の体温がやけにまっすぐに伝わってきて、なんとなく逆らえなかった。
私はただ、引かれるまま、草の中を歩き出していた。
草をかき分けるようにして進むと、丘のくぼみにぽっかりと現れたのは、土と木で編まれた小さな住居だった。
屋根の上には草が生い茂り、煙突の代わりに穴が空いていて、そこからゆるやかに白い湯気が立ち上っている。
遠くから見たら、ただの地形の一部みたいにしか見えない。
子どもは、何も言わずに扉を開ける。
私はひとつ息をのんで後に続いた。
中は思っていたよりずっと広くて暖かった。
焚き火のにおい。
焼けた木の香り。
干した布の匂い。
そして、ふいに感じるたくさんの視線。
「おかえり」
「誰だ?」
「あら、旅人さん?」
声がいくつも重なって、空気に柔らかく揺れが走った。
そこには、3人の大人と4人の子どもがいて、それぞれが別の作業をしていた。布を繕う者、食事の支度をする者、ただ寄り添って昼寝する者。
家族──というには、なんだか不思議だった。
血のつながりとか、親と子とか、そういう関係性の形じゃなくて。
もっと、役割のようなものが自然にそこにあった。
私が紹介されるでもなく、迎え入れられるでもなく、ただその場に“いていい”ことが、空気で伝わってくる。
誰も警戒してない。
誰も説明しない。
そのままの流れで私は布を差し出されて、座る場所を促されて、湯気の立つスープを受け取っていた。
言葉じゃない合図。
都市じゃとうに忘れていた種類の存在の認証。
この家には、鍵も境界も、たぶんない。
あるのは「ここにいる」という事実だけだった。
翌朝、陽がまだ高くなる前──
私は目を覚ました。というより、目を覚ましていた。
昨夜は、村の誰かと同じ布にくるまって眠った。
はじめはちょっとだけ戸惑ったけど、隣にいたのは子どもで、腕がふわりと絡まってて、あたたかくて気持ちよかった。
部屋の隅では、獣人の青年が裸のまま髪を編んでいた。
別の子どもが、その足元でごろごろ転がりながら笑っている。
誰も隠さない。
誰も気にしない。
見られている、という感覚そのものがこの空間にはなかった。
視線が交わるたびにお互いを観察するでもなく、確認するでもなく、ただ「そこにいるね」って、静かに頷くような。そんなまなざし。
都市で生きてきた私にとって、裸は特別な意味を持つものだ。
羞恥とか、意識とか、あるいは誰かとの距離を測るためのもの。
でも、ここではそれが情報ですらない。
身体はただの身体。
肌と肌が重なることは、行為じゃなくて空気と同じくらい自然だった。
子どもがふと、私の横に座る。
私の髪を一本つまんで、じっと見つめる。
「これ、やわらかいね」
声に悪意はなくて、ただの観察だった。
私は「うん」とだけ返して、その指のぬくもりを感じていた。
恥じらいって、誰のためにあるんだろう?
その問いが、胸の奥に静かに沈んでいった。
「ここに座っていいよ!」
子どもに言われて腰を下ろしたのは、焚き火のそばだった。
石を円く並べた中央に小さな炎がくすぶっていて、そのまわりに数人が集まっていた。
誰が家族で、誰がよその人で、誰が恋人なのか──そんな区別はもう、どうでもよくなっていた。
隣に座った青年が、私に獣毛の布をかけてくれる。
その手が、自分の体温をわたしに伝えるように、すこし長く触れていた。
でも、それが特別な意味を持っているようには思えなかった。
私の中で、何かが少しずつ緩んでいく。
(人の手に触れられるとき、いつもこんなに静かだったっけ?)
誰かと向き合うときに、私はいつも「自分」という輪郭を先に確認してた。
どこまでが私で、どこからが“あなた”かを、きちんと線引きしてからじゃないと踏み出せなかった。
でも、この村ではその線がない。
もっと言えば、線を引くという感覚そのものが存在しない。
たとえば、焚き火の向こうで子どもを抱いてる大人の表情。
あの顔は、守ってるんじゃない。頼ってるんでもない。
ただ「一緒にあたたかい」っていう、無防備さの中に全部があった。
私の背に、ふわりと誰かのしっぽが触れた。
獣毛の感触。ひやりとした空気の中で、それは確かに生きていて、熱を帯びていて──
そのとき気づいたんだ。
「個でいる」って、なんて重たかったんだろうって。
私は、あたたかい群れの中にいて、たぶん少しだけ輪郭を置いてきてしまった。
朝の草原は、まるで夜の出来事をなかったことにするみたいにあっけらかんと明るかった。
地面はまだ濡れていて、風は草の匂いを拾って流れている。
モナリ村は、何事もなかったように動き始めていて、誰かが獣を追い、誰かが薪を割り、誰かが寝そべって空を見ている。
私は昨日と同じく何のきっかけもなく、何の別れの言葉もなく、ふらりと歩き出した。
誰も引き止めなかったし、誰も「さよなら」を言わなかった。
でも、それは冷たさじゃなくてそういうものなんだ。
足元には、昨夜座っていた焚き火の跡がまだうっすらと残っている。
輪のような、巣のような──あの場所は、今もどこかあたたかい気がした。
ふと、手のひらを見た。
もう握っているものはないのに、あの小さな指の感触だけが、じわりと残っている。
都市に戻ったら、またいろんな境界線が必要になる。
職業、肩書き、住所、恋人、友人、他人──それぞれをきちんと並べて区別しながら生きる。
でも、モナリで見た関係性は、もっと曖昧でもっと優しかった。
線じゃなくて、にじみ。
手を繋ぐでもなく、引き寄せるでもなく、ただ「そこにいる」ことを受け入れる暮らし。
たぶん、群れってそういうものなんだろう。
名前のないつながりが、誰かの輪郭をそっと溶かしてくれるような──そんな場所。
市民の声