足音がよく響く朝だった。
コグニタ区の大通り、普段は研究員や記録官たちが行き交う静かな街路に、今朝は妙なざわつきがあった。
警備ドローンが目につく位置に浮かび、建物の角には仮設の検問装置。何かを探している。それも、かなり本気で。
通行人の多くはいつも通り冷静を装っていたが、その眼の奥に浮かぶ緊張は隠せない。
情報統制機関の中枢部に近いエリアでここまでの警戒態勢が敷かれるのは、ただ事ではない。
検問の一つで、白衣の女性が静かに首を振っていた。
「今朝、中央ノードが一時的にシャットダウンしたの。理由は開示されていないけど、空気が変だった。マナが、ざわめいてるみたいだったわ」
封鎖された通路の先では、黒服の部隊が動いていた。
彼らは情報統制機関の外郭セキュリティ――通称“コード・セイバーズ”。
通常、市民の前に姿を現すことはない。彼らが出てくるのは、機密が漏洩したか、あるいは外部から“何か”が侵入してきた時。
その日、コグニタ区の空気は、何かを押し殺すように重かった。そして、地下から吹き上がるような、冷たい風。
誰かがぽつりとつぶやいた。
「未開域から……魔物が……」
情報統制機関が異変を公表することは、まずない。
今回も例外じゃなかった。
コグニタ区の封鎖は「施設メンテナンスのため」と公式に発表されたけど、それを信じる者は、ほとんどいない。いや、信じようとしてるだけかもしれない。恐れから目を逸らすように。
それでも街には“漏れる情報”ってのがある。
記録装置を管理する技師のひとりが、深夜に再構築されたログデータの一部をちらっと見たという。
そこには、マナ反応の激しい歪みと、それに付随する“視覚ノイズ”の記録。コード化されたそれは通常なら廃棄されるが、何かに上書きされる前に、一部が外部端末に流出していたらしい。
「本部が動いてる。表に出さずに事態を鎮圧する気だ」
ある情報収集員が、そんな言葉を残して足早に消えた。
彼の首元には、薄く輝くソルの刻印。社会信用スコアが高く、どこかで“仕事”を請け負っていることを示していた。
中枢ノード周辺では、いつもの保守チームではなく“異常時プロトコル班”が動いているという目撃もある。
完全密封型の防護スーツに身を包んだ技師たちは、地下接続網の“ノイズ隔離層”へと降りていった。その層は、未開域との電磁結界を繋ぐ最後の防衛ラインでもある。
公式発表と、地上で起きている現実のギャップ。それが今、静かに、でも確実に広がっている。
最初の異常は、セントラルアーカイブの南端で検知された。
観測機が、未開域との境界線──“灰鎖の縁”にて、マナ波の逆流現象を捉えたのだ。
数値で言えば、通常の3.7倍。しかも断続的ではなく、連続的。
それはまるで、境界の“向こう側”から何かがこちらへ息を吹きかけているような動きだった。
魔物が現れたという噂は、その日の夕方には複数のセクターで囁かれ始めていた。
だが、目撃した者は多くない。
ある整備士は、運悪く裏路地で“それ”と鉢合わせたという。
彼は未だに現場に戻っていない。証言を得るには、知人を通じてコンタクトを取るしかなかった。
「影が、ぬめってたんだ。姿って言うより、“気配”が先に来た。何も聞こえないのに、耳が割れるような痛みがして……。振り返ったら、そこに、目があった。四つ。動いてなかったのに、見てきた。心の奥まで」
その魔物は、形を定めていなかった。液体のようでもあり、煙のようでもあり、何より“音を吸っていた”という。未開域の魔物の中でも、高位の存在に多く見られる性質。
しかも、その周囲のマナは“沈黙”していた。
沈黙するマナ。
それはつまり、そこに“生命がない”ということ。
何かが、未開域の封印を越えてやってきた。そしてそれは、境界の決壊ではなく──“解放”に近い。
情報統制機関のアーカイブには、誰もが閲覧できる公開記録と、アクセス制限のかかった“閉ざされた過去”がある。
その“過去”に、今回の出来事とよく似た記録があった。
西暦表示ではなく、古代マナ暦“第零紀231年”──今からおよそ600年前、灰鎖の縁で観測された“波動消失現象”と、それに続く“マナ反転”の記録だ。
この時、コグニタ区は存在していなかった。代わりに、“アノイア監視塔”という旧時代の情報集積拠点があり、そこに残されていた石版にこう記されている。
「空は裂け、マナは凍り、闇より滴るは名もなき声。声が形を持つとき、記録は命を超える」
不気味な詩文だが、実際この直後にアノイア監視塔は崩壊し、その跡地に建てられたのが現在の情報統制機関の基盤だ。
そして、この文面の意味が解読され始めたのはごく最近。市民の誰かがではない。マナ研究者の間で“記録に反応する魔物”の存在がささやかれたのだ。
記録されることで存在を強める存在。
目撃、記述、観測、保存……それらすべてが、奴らを“この側”に引き寄せているとすれば──。
過去と現在が、また同じ軌跡をなぞり始めている。
そして、情報統制機関がそれを知っていて隠しているとしたら……“誰が封印を解いたのか”という問いの向こうに、“なぜ解かれたのか”という、さらに深い闇がある。
異変は、街の端からじわじわと滲み出すように始まった。
とくに感じ取ったのは、マナに敏感な子どもたちや、動植物たちだった。
クリエイトタウンの屋上菜園で育てられていた果実が、実を結ぶ直前にすべて落ちる。ハーモニア区の水路を泳ぐ魚が、突然群れを崩して逆流を始める。
小さな違和感の積み重ねは、やがて街の空気そのものを変えていった。
「空が、うまく呼吸できない」
そう言ったのは、アクティブブロックで演奏をしていた若い音楽家だった。風が音を運ばなくなり、音が響かなくなったという。
同じようなことを、別の場所で聞いた。オデッセイスクエアの自然観測官が「風のマナが鈍っている」と記録していたのだ。
そして、決定的だったのは──
iAエリア周辺に設置された“マナリングモニター”が、過去に一度も記録されたことのない“ゼロ反応”を出したこと。
これはつまり、“マナが存在しない状態”を意味する。
ゼロマナ状態。それは自然ではあり得ない。
しかもその現象が、よりによってiAの周辺──
神聖領域の直下で発生しているという事実は、機関にとっても重いはずだ。
同時に、街のあちこちで市民の“ソル”にも微細な変動が見られ始めた。善行でも悪行でもない行動に対して、数値が不安定に振れているのだ。
これはソルの根幹──マナによって支えられる信用評価基盤が、揺らいでいることを示している。
つまり、今のiACITYは、ただ静かに暮らしているだけでは“都市として成立しなくなりつつある”。それほどに、マナの揺らぎは根本的だ。
気づく者だけが気づいていて、見ぬふりをしている者は、そろそろ限界に差しかかっている。
住民の声